ホーム > 小説 > その足の翼は > (六) |
空はすっきりと晴れ渡り、風はそよとも吹いていなかった。空高くから照らす日差しが十分に体を温めてくれるおかげで、今が冬であることさえ忘れそうだった。
地上から昼休みのざわめきが聞こえてくる中、武史はいつものように屋上で一人、焼きそばパンを頬張っていた。このところ、以前にも増して授業がかったるくて仕方ない。放課後に祖父と行う練習だけでは物足りず、最近は早起きして朝の自主練も追加していた。一時間以上早く起きると出勤前の両親と鉢合わせしそうになるのだが、顔を合わせても「今日はやけに早いな」くらいしか言われない。親のそっけなさには昔から胸が悪くなる思いをしていたが、変に咎められずに好きに朝練ができるのはありがたかった。
ぼんやりとパンを口に運びながら、制服の上から軽く脛のあたりをさする。最初の頃は走った直後にしかなかった、足の突っ張るような感覚が、このところなかなか抜けなくなっていた。これが祖父の言う疲労の蓄積なのだろうか、と考えていると、背後で扉のきしむ音がした。
とっさに詩乃の顔が浮かんだ。あれから一度も言葉を交わしていない。振り向いた武史は、とたんに表情を引き締めた。土埃の匂いがした――そう思ったが、気のせいかもしれなかった。
「本当にこんなところで食べてるんだな」
低いがよく通る声だった。制服姿は初めて目にするが、すらりとした長身と涼しげな目元は見間違えようがない。
物珍しそうに周囲を見回している訪問者は、陸上部のエース、南方だった。
「なんだよ、誰から聞いたんだ?」
聞くと、南方は面白そうに笑みを浮かべた。
「別に。誰でもいいだろ。噂を聞いたときは、ほんとにそんなやついるのかと思ったけどな」
「正解でよかったな。気が済んだら帰ってくれよ。まだメシ中だ」
「用が済んだらすぐ帰るさ。おまえ、陸上部に入らないか?」
唐突な誘いに、武史はぽかんと口を開けた。
「汚えな。口を閉じろよ。こぼれるぞ」
「おまえ、何言ってんだ? 勧誘なら一年相手にやれよ」
「それをやるのは春だ。今やってるのはおまえへのスカウトだよ」
冗談ではなさそうだった。武史は口の中のものを牛乳で流し込むと、南方のほうにくるりと向き直った。
「スカウトって、おれをか?」
「そう言った。おまえ、本郷だろ? 先週の練習会のとき、三キロ過ぎまでずっと俺のすぐ後ろを走ってた。あれきり練習会に来ないのはなんでだ?」
「そりゃ、おまえ、ああいうのは柄じゃねえからだよ。あんときはたまたま、ロダンのやつに捕まって」
武史はとぼけた。本当の理由は言えない。南方を前にしてはなおのこと言いたくなかった。
吸い込まれるように釣られた、あのペース。今でも目を閉じれば蘇ってくる、軽快な足運び。自分のペースを乱されることを、武史は恐れていた。容易に崩されないくらい自分の走りを確立してからでないと、南方とは走りたくない。
「柄じゃないなんてことはないだろう」南方は腰に手を当て、語気を強めて言った。「あのときのおまえは明らかにオーバーペースだった。でもそれは単に走り慣れていないからだ。本来の能力以上の無茶をしたわけじゃない」
「そりゃどうも。なかなか買いかぶってくれてるとこ悪いんだけどさ、おれ囲碁部のエースなんだわ。簡単に辞めちまうと他の連中がうるさいんでな」
「ろくに部活に出てないのにエースなのか?」
指摘されて、武史は眉をひそめた。
「そりゃ、わざわざスカウトするからには、おまえのことはそれなりに調べてきてる」南方は少し迷ってから付け加えた。「うちの顧問の大原先生も、おまえには注目してるんだ」
「へえ、大原が? おれあいつと話したこと一度もないぜ?」
「先生がおまえを意識したのも、あの練習会が初めてだろうな。ともかく、先生は囲碁部の顧問に直接話を聞きに行ってる」
「おい……」武史は身を乗り出し、文句を言おうとした。自分の知らないところで自分について勝手に取沙汰されているのは気分のいいことではない。しかし口元を引き締め、武史の出方をまっすぐ受け止めようとしている南方の表情を見て、武史はぐっと自分を抑えた。それから肩の力を抜いた。
「ずいぶんフェアじゃねえの」
教師が裏で動いていることなど、わざわざ口に出して言う必要はなかったのだ。それをあえて明かした南方のやり方に、武史は少しばかり好感を持った。
「それだけ本気ってことさ」
気障な台詞をさらりと口にする。強い意志がストレートに伝わってくる。
武史ははっとしたが、すぐにゆるゆると首を振った。「悪ぃんだけどさ、そういうのはほんと、柄じゃねえんだわ。みんなで仲良く練習とか、汗かいて青春とかさ。だいたいおれはろくに――」
「走るのは好きなんだろ」
腕も組まず、まっすぐ立って武史に問いかけてきた南方の姿に、既視感があった。少し考えてすぐに思い当たった。担任のロダンこと柏葉だ。口調は穏やかといっていいくらい静かで、威圧するようなそぶりは少しもないのに、気圧されそうになる。おそらく二人とも――柏葉は何についてなのか分からないが――自分のやっていることに自信があるのだ。武史が二人から感じ取って苦手と感じているのは、おそらくその自信なのだろう。
そこまでは察しがついたが、二人が自分に向けてくる感情が何なのか、武史にはよく分からなかった。期待、だろうか。しかし人に真面目に期待されるような何かを自分が持ち合わせているとは、武史は思っていない。
「どうなんだよ、走るのは好きなのか?」
重ねて訊いてくる。恥ずかしいことを真顔で聞くなよ、と茶化そうかとも思ったが、そうさせてくれない気迫があった。武史は口の端に浮かべていた笑みを消した。
「歩いたり走ったりするだけなのに、好きも嫌いもあるかよ」挑むように南方を見据える。「おれに興味があるのは、おまえに勝てるかどうかだけだ。他のことはどうでもいい」
「俺に勝てると思ってるのか?」
それは純粋に不思議そうな問いだった。首を傾げているが、からかいの調子はかけらもない。
「思ってなきゃ、こんなこと言わねえだろ」
武史は低く答え、片ひざを立てて前傾姿勢をとった。今のところ、南方との差は歴然としている。しかし不安や焦りを顔に出したくない。
「一人でいくら練習したって、たかが知れてるぞ」
「分かんねえだろ。それに一人じゃねえ」
「へえ。誰かコーチがついてるのか」
「そんなかっこいいもんじゃねえよ」
二人はしばらく睨みあった。
南方が先に、いなすように視線を外した。
「まあ、すぐに返答しろとは言わない。考えておいてくれよ。いつだって歓迎するぜ。それと――」再び武史をまっすぐ見据えて言った。「おれの五キロのベストは十三分四十二だ。公式の記録会じゃないが、持久走大会も更新するつもりでいく。当日を楽しみにしてるぜ」
立ち去りかけた南方の背中に、武史は吠えるように言った。
「おれは、負けねえぞ」
南方は振り返らずに即座に答えた。
「ああ、俺が勝つ」
静かに去っていく。武史は強く唇を噛んだ。口にした言葉の差が、そのまま二人の差だった――それを思い知らずにはいられなかった。
武史は燃える目で、南方を飲み込んだ鉄の扉をにらみ続けた。知らずに焼きそばパンを握りつぶしていた。野球でもしているのか、フェンスの下の方から騒々しい声が上がるとようやく我に返り、武史は舌打ちした。
「ちくしょう、うるせえんだよ。ちくしょう」
腹立ちまぎれに、コンクリートの床を拳で殴りつけた。
その日の放課後練習は、敏久がいつにもまして厳しかったが、武史にはむしろ望むところだった。もも上げや四百メートルのペース走など、長距離走で速くなるという目的に一見そぐわない練習メニューを敏久は組み立てていたが、武史は一度も疑問を口にしたことがなかった。祖父が武史のためにならないことをするはずがないのだ。
南方に声をかけられたことは、祖父には黙っていた。感情的にまだ落ち着いていなかったし、話せばうっぷん晴らしになるとも思えなかった。
この日のタイムは十四分五十二。十四分五十の壁を、武史はこの日も越えられなかった。
「練習と本番じゃあ力の出方にも違いが出る」敏久は息を切らせている武史のそばでぼそりと言った。「それに疲労の蓄積もある。本番が近くなったら練習量を抑えて疲労を抜けば、きっちり力を出せるようになる」
「おれは何にも言ってねえだろ」
「ふん、オレだっておまえに言ったわけじゃねえ。ただの独り言だ」
祖父との練習が終わると、武史はいつものように秘密の追加練習を始めた。祖父に見つからないよう河原まで行き、ストレッチとペース走をする。それから、いつものコースをもう一周。
これに加えて朝練もある。ただでさえ布団が恋しいこの季節、疲れた体に鞭打って早朝に起き出すのはつらい。その分、早く床に着きたかった。家に帰ると風呂と食事をさっさと済ませ、十時前には布団にもぐりこむ。余計なことは考えたくなかったし、実際に何も見ず、走ること以外に何も考えなかった。
だから、気づきもしなかった。
異変に気付いたのは、隣家の米田修造だった。その夜、敏久を訪ねようとした修造は、垣の戸をくぐってすぐにかすかな違和感を覚えた。敏久の居間の障子戸が開け放しになっており、電球の明かりがいつもよりも鋭く外に漏れている。眉をひそめた修造は、縁側の前に黒い影がうずくまっていることに気づくといっそう眉根のしわを深くした。その手前に白茶けた塊があり、やがて顔を上げてにゃおうと鳴いた。
「トシさん?」
杖を突きつつ近寄る。たしかに敏久だった。地面に屈みこみ、ダイノにミルクをやっている。それは分かるのだが、修造が近づいても敏久は顔も上げない。
「……トシさん?」
もう一度呼ぶ。返事はない。暗がりに目が慣れてきた。逆光で影になった敏久の全身が震えていることに、ようやく気が付いた。
「トシさん! いったい――」
慌てて敏久のすぐそばに屈みこんだ。ダイノがしきりに鳴いている。ミルクの皿は空だった。
ぐっと噛みしめた奥歯の隙間から、敏久が声を絞り出した。
「体……がよ、動かねえんだ」
修造は敏久の腕に触れた手を思わず引っ込めた。凍りそうに冷え切っていた。
「トシさん、いったいいつからこんなところに」
「あいつに、まだ……話してねえ……怒るだろうな、あいつ」
「落ち着いて。待ってるんだ、今、人を呼んでくるから」
「オレは……オレはよ、いつくたばったって……後悔なんざ、しねえと思ってた……」
見開いた真っ赤な目がぎろりと動いた。修造を透かしてはるか前方を睨みつけている。目の縁から細い涙が流れ出た。
「トシさん! しっかりするんだ」両肩をつかんで声をかける。顔をのぞきこんだが目の焦点が合っていない。生気が瞳からみるみる抜け出ていくのを感じて、思わずうめいた。「ああ、なんてことだ」
「……まだ……あいつに……教えてやれて……まだ……伝えることが……あいつに……」ほんの一瞬、その目が焦点を結んだ。口の端が動き、寂しそうな笑みを形作る。「あいつ、一人になっちまうな」
ぐるん、と白目をむいて、敏久は糸が切れたように地面に崩れた。ミルク皿がひっくり返り、驚いたダイノがとびすさって威嚇するように声を立てる。
修造がいくら呼びかけても、肩を揺さぶっても、敏久はまったく反応しなかった。修造は杖にすがるようにして立ち上がると、つまづきそうになりながらも本郷家の玄関前まで急ぎ、必死にチャイムを押した。何度も押した。
武史以外の誰かが出てくれればいい、と願いながら。
すでに眠り込んでいた武史がけたたましいチャイムの音で叩き起こされてから五日後、敏久の小さな体が収められた棺を前に、武史は無表情で、居間の床を見つめて正座していた。顔を見た記憶すらない、他人同然の親戚たちが背後でぼそぼそと挨拶を交わしている。祖父の家では嗅ぎ慣れている線香の匂いが、自分の家ではひどく場違いに感じられた。暖房が止めてあるにも関わらず、学生服でも寒さはまったく感じなかった。
携帯電話を閉じながら、喪服姿の父が部屋に戻ってきて母と武史の間に腰を下ろした。
「あと十五分くらいで読経を始めますって」母が小声で父に伝え、ちらりと見上げて付け加えた。「仕事の電話? 電源を切っておけばいいのに」
「そうもいかないだろう。客先全部に連絡しておけるわけがないんだから」父が憮然とした声で言い返す。「ずいぶん線香臭いな。壁に臭いが染みつくんじゃないのか。離れでやるわけにはいかなかったのか?」
「無理よ、あっちじゃ狭すぎるもの。皆さんを外に立たせておくわけにもいかないし」母は首を少し傾けて背後を示してから、さらに声を落とした。「だから、もっと早く式場を決めておけばよかったのよ。お義父さんの具合が悪くなったのは最近ってわけでもないんだし」
「そんなこと言ったって。見た目は元気そのものだったじゃないか。親父は具合が悪いなんて自分からは言わないし。おまえこそ、ちゃんと注意して見ていなかったんじゃないのか?」
「あなたの親でしょう? だいたい、あなたこそお義父さんの様子を見てあげてたの?」
「毎日は見られないさ。朝も早いし帰りも遅いんだ、そう頻繁に見に行けるはずがないじゃないか」
「私だってそうよ。お義父さんが倒れたときだって、私まだ会議中だったんだから」
「おれだって出先だったさ。障害対応中に抜けるなんて言ったもんだから……まったく間が悪い」
「でも私なんか……」
「それを言うならおれだって……」
武史は無言で立ち上がると、気づいた母が声をかけるのを無視して表に出た。本郷家、と書かれた白黒の看板が、自分の家を指し示しているのが性質の悪い冗談のようだった。
祖父の家の庭に回り込む。いつもの障子戸は見えない。雨戸がぴったり下ろされているからだ。武史はズボンのポケットに手を突っ込み、もう長いことそこに入れなくなっていた煙草の箱を無意識のうちに探った。
ひどく静かだった。大きな枯葉が一枚、北風にあおられて地面をひきずられていく。
「武史ちゃん?」
詩乃だった。やはり制服姿で、垣根越しに心配そうに顔をのぞかせている。武史は振り返らなかった。
垣根越しに話をするのなど小学校以来だった。詩乃は声をかけてからそのことに気づいてうつむき、話を続けていいのか、どう言葉を続ければよいのか迷っていたが、やがて顔を上げた。
「お葬式、十一時からだったよね」
「……」
「私もお見送りに行くね」
「……その必要はねえよ」
力の抜けたような返事に、え、と詩乃は聞き返した。武史はまだ雨戸を見つめていた。
「あっち行ったって、ジジイはいねえよ。見送るも何も」
「それでも」詩乃は必死に言葉を探した。「ちゃんとお別れしようよ。ね?」
武史は返事をしなかった。詩乃もそれ以上何も言えず、うつむいて家の中へと戻っていった。
念仏が聞こえてきてもまだ、武史はその場にじっと突っ立っていた。祖父が戸を開けて顔を出すかもしれない、などとは少しも考えなかった。祖父は一度も雨戸を下ろしたことがなかった。武史はいつでも、開かれた縁側から祖父を訪ねることができた。
敏久が癌を患っており、発見時にはすでにかなり進行していたため入院治療を断ったこと、武史には自分から伝えるからと両親に強く口止めしていたことを、武史は敏久が倒れた後で聞かされた。結局、そのことを本人の口から聞くことはなかった。それどころか病院に運び込まれてから息を引き取るまで、敏久の意識が戻ることはなかった。武史は一度も涙を流さなかった。
骨に転移した癌はひどくなると、激しい痛みを伴うという。その痛みは薬でも徐々に抑えきれなくなっていたのだろう。縁側から出入りできなくなった敏久のサンダルは、今も無残に脱ぎ捨てられたままだ。
閉め切られた雨戸の向こうにはもう、祖父はいない。その現実しかなかった。だから、その現実を見つめているしかなかった。
雲一つない青空が恨めしかった。祖父がいようといまいと、世界は気にも留めない。
足元にダイノが座り込み、武史を見上げて一声鳴いた。その声にやっと物思いから覚めた武史は、ダイノを見つけて小さく笑った。
「なんだよダイノ。寂しいのか?」
屈みこみ、頭をなでてやる。ダイノは目をつむって、されるがままになっていた。
「そう寂しがるなよ。おれがいるじゃねえか」
ダイノは温かかった。
「そう、寂しがるなよ」
ずっと、ダイノの頭をなで続けた。