ホーム > 小説 > 赤ふんスイマーズ > (四) |
顧問の阿久津がプールに姿を現すまでだいぶ間があった。彼を迎えに行ったはずの樹里はとっくに戻ってきていた。
「どうもどうも、この暑い中よくお越しくださいました」
いままでクーラーの効いた職員室でのんびりくつろいでいたのだろう、いっぺんに吹き出した汗を懸命にハンカチで拭いながら、阿久津は枝島老人を見つけ、せわしなく挨拶をした。それから急に表情を険しくして辺りを見回す。
「おい清水、清水はどこに行った。お客様にお飲み物を……」
「清水は石田と麦茶を取りにいってます」孝和がむすっと遮った。ついでに「清水のお母さんも来てますけど」と小声で付け加えて阿久津を慌てさせてやった。
お客様、はあらかじめ孝和たちが準備しておいた天幕の下の席に、すでに腰を落ち着けていた。阿久津は自分のための椅子がないことが不満らしかったが、孝和は知らん顔をした。「二日連続で顧問がプールに来るなんて初めてじゃねえの?」という仁科の声が聞こえたが、これもたしなめるつもりはなかった。
ほどなく麦茶の入った大きなポットと紙コップを携え、石田と清水が戻ってきた。持ってきたばかりなのに、ポットはすでに汗をかいていた。一年生が手伝い、客に麦茶入りのコップが行き渡ると、孝和はOBたちを前に二列横隊で部員を並ばせた。男子十九名、女子十一名。中央に孝和、その両隣に石田と清水が並び、自然と男子が左、女子が右側に固まった。普段から顔を見せない幽霊部員を除けば、結局OB会を欠席したのは二人だけだった。
「岩国、礼だ、まず礼をせんか」
阿久津が急きたてた。彼の席はないものの、しっかり天幕の陰に入って直射日光を避けている。孝和は感情を殺して機械的に号令をかけた。
「気をつけえ、礼、よろしくお願いします」
よーしゃいしやーす、というだらけた挨拶が続いた。体育教師のようにやり直しを命じてくるんじゃないか、と孝和は阿久津をちらりと見やったが、阿久津は口をへの字にして不満を表しただけだった。OBたちは日焼けした部員たちを面白そうに眺めているだけで、挨拶については特に気にした様子がない。
阿久津は部員たちを見回すと一つ咳払いをし、少し裏返った声で話を始めた。
「今日はOB会ということで、おまえたちの大先輩に当たる方々がお見えになっている。偉大な先達のご指導を頂ける貴重な時間である。日頃の私の指導よりもなお、得るものが大きいだろう。この限られた時間を有効に使って、各自今後の成長に活かせるものを掴み取ってもらいたい」
日頃の私の指導、というところで部員たちの間にあからさまにしらけた空気が漂った。くすくす笑っている者もいる。孝和は澄まして正面を見据え、無表情にやり過ごした。ただ隣から石田が軽くひじで小突いてきたので、軽くやり返した。
部員たちのざわつきに、阿久津の眉がぴくりと上がったが、彼は構わず話を続けた。
「このあと、初代部長である枝島様にお言葉を頂戴できるかと思いますが、その前に簡単に本校水泳部の歴史についておさらいしておこうと思う。本校水泳部は一九五九年、ここにおられる枝島様を部長として創立され、当時の全国中等学校水上競技大会に出場して輝かしい成績を収められ、続く大会においては……」
まるで校長の話だな、と孝和がうんざりしていると、それまで眠っているのかと思うほど目を細めたまま黙って座っていた枝島が、小さく手を上げて「ちょっと」と阿久津に声をかけた。阿久津はすぐに演説を中断して枝島の顔色を窺った。孝和をはじめ、部員たちの好奇と期待の目が枝島に集まる。老人は口を開けたまま、何を言おうとしていたのか忘れてしまって思い出そうとしている様子だったが、やがて「ああ」と納得したような声を上げ、阿久津に言った。
「お話を中断してしまって申し訳ない。最初にお伝えしておけばよかったんですが、今日は簡単な差し入れを持ってきておりまして」
横に座っていた中年男が、申し合わせていたように足元のクーラーボックスを机の上に持ち上げた。ふたを開け、中身が部員たちに見えるように傾けた。そこにはアイスの容器がが大小取り混ぜてごろごろと入っていた。部員たちからおおっと歓声が上がる。
「このとおり、溶けるものもありましてね」と老人は続けた。「もしよければ選手たちにも座ってもらって、アイスでも食べながらというのはどうでしょう。まあ、このあとまだ練習があるようでしたら、先に泳いでしまってその後で食べた方が、体に悪くないと思いますが」
「ありがとうございますっ!」
今度は孝和の号令なしに、部員たちが一斉に頭を下げた。阿久津はしどろもどろになった。
「ご配慮頂き大変ありがとうございます。はい。では、えー、やはりその、先に、ですね、練習の方をですね」
「ではそうしましょう」老人はぶつんと阿久津を遮って孝和に顔を向けた。「部長さん、今日の午後の練習メニューはどうなっていますか」
「ええと……午前中で一通り練習メニューは終えています」
「ああ、練習はもう終わっているのですか。どれくらいの距離を泳ぎましたか」
「四千五百です」
「ふむ」老人は少し考えた。「それは夏休みの標準的な練習メニュー、でしたね」
「そう、ですけど」
「なるほど」老人は物問いたげな目を阿久津に向けた。
「昨今は塾通いの学生が増えまして」阿久津は授業で指された生徒のようだった。「いっそうの強化のために練習量を増やし、午後も練習を、となりますと保護者からの苦情もありますもので、なかなか実現には至りませんで――」
「あちらで練習をしているのは野球部でしょうか」老人はネット越しに見えるグラウンドを指差した。くたびれた白いユニフォームを着た学生たちが、掛け声を上げながら足並みを揃えてランニングしている。
「そのようです」阿久津の返答はやや捨て鉢だった。
「なるほど」老人は宙に目をやってまた少し考え込んだ。居心地の悪くなる間があった。
このやりとりから、孝和にも思い当たることがあった。顧問は責任上、部の活動時間帯には部員たちを監督していなければならない。少なくとも学校にいる必要はあるだろう。もし部活動が午前中に限られるなら、顧問は午後半日、誰にも気兼ねすることなく夏休みを満喫することができる。
老人はやがてどういう感情も表情に出さずに言った。「まあ、事情はいろいろあるのでしょう。それにいつもどおりのメニューということなら、あまり上乗せしてもよくないでしょう。ではここからは、ざっくばらんにやりましょう」それから阿久津に顔を向けた。「我々は今日は五人しか集まりませんでした。例年に比べて人数も少ないことですし、先に自己紹介をさせて頂けますか。その方が現役のみなさんとも話がしやすいですから」
阿久津の姿勢は低い。「仰るとおりだと思います。ではぜひご紹介頂けますか」
「では……私からでいいですね」軽くOBたちの方を振り向いてから、老人はゆっくりと立ち上がった。「先ほど先生からご紹介を頂きましたが、私は枝島といいます。本校水泳部の初代部長を務めさせて頂きました。専門はフリーのスプリントです。長年会社勤めをしていましたが、四年前に定年退職しました。今日は若いみなさんとお会いできるのを楽しみにしておりました。どうぞ、よろしく」
頭を下げる老人に調子を合わせて、「よろしくお願いします」とばらついた挨拶をしながら、部員たちが軽くおじぎをする。この歳でも専門種目を自己紹介に持ってくるあたりは、いかにも元水泳部らしかった。長々と創部にまつわる神話を語り出したりしなかったのが孝和には意外でもあり、枝島の雰囲気からして自然だとも思った。
老人がすっかり席に腰を落ち着けるのを見計らって、隣の男が立ち上がった。長身で肉付きがよく、ふっくらした顔立ちながら、若かりし頃の精悍さを感じさせるものがある。しかしだいぶ後退した額の生え際といい、ズボンのベルトに締め出されて膨れてみえる腰周りの肉といい、全体としては日曜日のお父さんと形容したくなる風貌である。
「伊井といいます」めりはりのある声だった。「私も専門はフリーでしたが、枝島さんと違ってもっぱら中長距離を得意としていました。今は二つ隣の駅の商店街で金物屋をやっています。この学校を卒業してもうすぐ三十年になります。どうでもいいことですが、こいつらの二年先輩です」と隣を指した。隣に座っている男二人は苦笑したり、ほほをかいたりしている。孝和にもその感覚は分かる気がした。自分が一年生のときの三年生の先輩というのは、一種独特の存在感がある。
次に立った男はOBたちの中でもっとも顔に特徴があった。眉の筋肉が発達してひさしのように盛り上がっており、口の両端のしわが深く、ブルドックのようないかめしい顔つきだ。それだけだと人相の悪い男で終わってしまうが、額があわれなほど後退していて、側頭部から余った髪をかき集めて横に渡している。いわゆるバーコード頭である。肩幅がある割には体の線が細く、半袖のシャツの両脇がだいぶ余っている。
「木内といいます」低くて渋い声で名乗り、部員たちを見渡した。眼光は鋭いが、怖さよりも頭髪の滑稽さが目立ってしまう。「学生時代はブレストを専門にやっていました。隣の今野とは同級生で、いろいろ悪さもしていました」
あの顔で悪さっていったらカツアゲだな、と石田がささやき、孝和は笑いそうになるのを懸命にこらえた。たしかに爽やかな運動部の学生というより、路地裏にたむろしていたというほうがイメージしやすい。若くて髪が多かった頃はさぞかし怖がられただろう。木内は建設会社で働いていることや、小学生になる息子がいることを話して紹介を終えた。
続いて立ち上がったのは背の低い、丸々と太った男だった。さっきからしきりにハンカチで汗を拭いている。横縞のシャツは腹のところで見事に突き出ており、汗にぬれてべったりと肌に張りついている。額は短めに刈っているが、おそらく額の生え際を目立たなくするためだろう。しかしその努力はほとんど役に立っておらず、伊井の後輩というわりには、むしろこちらの方が老けて見える。
「今野です。専門はバッタです。ええ、私が現役の頃は女子がいなくてですね、男ばかりでしたけども、ええ、やっぱり女子がいると華やかでいいですね」女子に向かってにっこり笑いかけた。悪気はないのだろうが、その爽やかとは言いがたい笑顔に女子の群れは一斉に身を引いた。「子供が二人いるんですがどちらも男の子で。家の中も華やかさに欠けております。都内のアパレルメーカーで働いているんですが、二時間かけて通ってまして、なかなか大変です。まあ、そんなわけで、今日は緊張していますが、ひとつよろしく」まとまりなく話を終えると、すとんと腰を下ろしてしまった。今の動作で余計に汗が出たのか、ハンカチがせわしなく顔面を行き来している。
孝和はふと違和感を覚えた。今野は緊張しているらしいが、なぜだろう。阿久津の話を信じるなら、彼らはこのあと泳ぐらしい……現役高校水泳部員に混じって。年齢からして枝島老人は見学だろうが、かといって他の男たちの風体からも、目の覚めるような泳ぎを期待することは難しい。木内のバーコード頭が海草のように水面に浮かぶ様や、肥え太った体型の今野が水を跳ね散らかしてバタフライもどきを演じてみせる様子を想像してしまい、思わず首を振る。あり得ない。そんなみっともないことは、逆の立場だったら自分は絶対にしない。しかしもし、そんな醜態をさらすことに緊張を覚えているのだとしたら、彼はなぜわざわざ今日ここに来たのだろう?
孝和の物思いをよそに、自己紹介は最後の一人の番になった。すっと元気よく立ち上がったのは清水の母親である。目元や口元、長いまつげ、あごのラインなど、親子であることを人に感じさせる点はいくつもある。街を並んで歩けば美人親子として人目を引くだろう。ただし母親の方は化粧が濃く、くどいくらい派手な印象を与えている。
「みなさん、こんにちは」笑顔で陽気に挨拶をする。白いブラウスにグレーのスカートというのは、文具店で客を相手にするときの服装そのままだ。そして接客スマイルで「清水静香です。由香の母親でございます。駅前商店街の文具店で働いております。皆様には日頃からご贔屓を賜りまして、ありがとうございます」と茶目っ気たっぷりにおじぎをすると、部員たちの間からくすくすと笑い声が上がった。それに気をよくしたのか、清水母はさらに調子よく話を続ける。「名前が『しずか』なものでこのような場でお話するのが苦手でございまして、今も何を話せばよいものか、なかなか言葉が出てこない有様でございます。ただやはり女は慎ましいのが好まれるかとも思いまして、娘にもゆかしい女性になるようにと『由香』と名づけまして、これも親の願いどおりの性格に育っておればと常々思っているのですが皆様いかがでございましょうか――」
男子部員たちからどっと笑いが起こる。二年生の女子はお腹を抱えて笑っている。すぐ後ろに並んでいる一年女子はほほをひくひくさせているが、それ以上笑っているそぶりを見せないよう苦心しているのがありありと見て取れる。清水が額を押さえてうなだれた。
「ブチョー、あたし帰っていい?」
「分かる。分かるけど耐えてくれ」
「学生時代の専門はバックです」清水母は朗らかに続けた。「奇しくも娘と同じ種目が専門です。私が強制したわけではないんですけど、小さい頃に背泳ぎの手ほどきをしたことがあるので、もしかしたらそれが影響しているのかもしれません。まあそれはともかく、今日は紅一点としてできるだけ頑張りますので、どうぞよろしくお願いします」
深々と頭を下げてから着席したが、部員たちのざわめきは収まらない。阿久津が二、三回咳払いをして、自分が司会進行役であることを印象付けようとしたが、そのとき彼の背後から、油の切れたスチール扉の開く音が響いてきた。孝和にはそれがどこの扉の音かはっきり分かった。部室、ほぼ間違いなく男子部室の扉だ。そしてべろべろになった上履きの足音が二人分、まっすぐプールに向かってきた。やがて姿を現したのは、いままで部室を占有していた三年生コンビ、祐天寺と小田だった。小田は制服姿だが、祐天寺は一泳ぎするつもりなのか水着を履き、ジャージの上着を引っかけている。祐天寺はスナック菓子の袋を抱えており、そこからわしづかみに菓子を取っては口に放り込んでいる。小田はその半歩後ろをマンガ雑誌を手についてくる。
一瞬のうちに嫌な空気があたりを支配した。
「お、お、お」阿久津が怒りのあまりどもりつつ、声を震わせて叫んだ。「おまえたち、何をしている! 祐天寺、プール内では飲食禁止だぞ!」
祐天寺はまったく動じず、冷たい一瞥を阿久津にくれただけで、また菓子を取って口に入れた。青ノリ味、という袋の記載を孝和が目にしたのとほぼ同時に、祐天寺はぺっと痰をはいた。それはちょうどプール入り口にあるシャワー場の壁に斜めにひっつき、汚らしく尾を引いた。青ノリがまだらに混じっているのが少し離れた孝和たちの位置からでも分かった。それを見た小田がヒヒッと短い笑い声を上げた。
OBたちは何も言わない。だがそこには目に見えそうなほどの緊張の糸がピン、と張りつめた。阿久津が何かわめいているが誰も耳を貸さない。そして孝和は……孝和は、OBたちとも阿久津とも違う反応をした。うつむいて目を逸らしたのだ。
相手が部の先輩で、絶対的な存在ということもある。喧嘩っぱやく、悪い噂が絶えず、腕力では太刀打ちできないという本能的な恐れもある。しかし真っ先に孝和の心を占めたのは、八秒というベスト記録の差だった。百メートル自由形で八秒。それは永遠に近い時間であり、絶望的な差だった。祐天寺は昨年からすでに自由形短距離種目のエースであり、他の追随をまったく許さなかった。気まぐれで練習もさぼりがち、大会当日に「やる気が出ねえ」という理由で棄権したこともある人間だが、いざレースに出ると圧倒的な実力を見せた。メドレーリレー、フリーリレーのメンバーに選ばれるのも当然、常に祐天寺だった。
祐天寺が引退した今、彼の後継者の立ち位置に孝和はいる。しかしそれはあくまで現役部員の中で順位付けした結果であって、自信を持って引き継げるだけの実力がないことは誰に言われるまでもなく、孝和が一番はっきり理解している。その思いが足かせとなって、祐天寺に強いことを言えない自分がいる。孝和は情けなさと苛立ちに唇を噛んだ。
「何してるっておれたち、練習を見に来ただけっすよ」祐天寺が菓子を噛みながら阿久津に口答えをした。「後輩に泳ぎを教えに来ちゃいけないんすか?」
「態度がなっとらんと言っているんだ! その菓子はなんだ!」
「ああこれ? 栄養補給っすよ。いつもは午前練で終わりでしょ? 今日は午後も何かやるって聞いたから飯代わりに食ってるんすよ」祐天寺の声に獰猛なものが宿った。「それとも先生が手本見せてくれるんすか? だったらおれも見学させてもらいますけど」
「な、なんだと」
「いや、別に無理しなくてもいいんすよ?」
ばりばりとスナックを噛み砕く音が顔を伏せている孝和にも聞こえてきた。視界の隅で、阿久津が半歩後ずさるのが見えた。名ばかりで中身のない顧問は、無言のプレッシャーにも簡単に押しやられてしまう。その重みのなさ。しかし孝和には阿久津を笑い嘲ることはできなかった。それは自分を罵倒するのと同じことだ。
隣の石田がこぶしを握っている。今のところ、祐天寺たちの行為ではっきり非難できるのは、痰でシャワー場を汚したことくらいしかない。プールサイドでの飲食については前の代からさほど厳しくなかったし、顧問に対する侮辱に関してはかばってやる義理などない。小田に至っては単なる祐天寺のお付きでしかなく、今のところ祐天寺の後ろにのっそり突っ立ってにやにや笑っているだけだ。しかし危険をはらんだ空気が、ぴりぴりと部員たちを刺激しているのが肌で分かった。もし祐天寺がさらに出すぎた真似をすれば――例えば痰の始末を一年生にでも命令しようものなら――石田や清水は確実に行動を起こすだろう。二人のそういう率直さを孝和はよく知っている。他のことであれば、孝和は二人を制止できるかもしれない。間に入ってより穏やかに事を解決することができるかもしれない。しかし相手が祐天寺となるとまったく自信がなかった。何もできない自分の姿を想像して恐れた。
しばらく続いた冷たい沈黙を、枝島老人の声がやわらかく破った。
「やあ祐天寺くん。一昨年以来だね」
孝和ははっと顔を上げた。老人の表情は穏やかなままだ。声音にも怒りや恐れは混じっていない。それでいて、場に張り詰めた緊張の糸はまったく緩む気配がない。
祐天寺は老人をにらみつけた。「うす。元気そうじゃないすか」
「気持ちだけはまだまだ若いつもりだよ。ときに県大会では健闘したようだね。部の成績には毎年目を通しているよ。今年のうちからの入賞者はきみ一人だったね。おめでとう」
「はあ、どうも」
気勢を殺がれ、祐天寺は口ごもるように返事をした。戸惑った視線が揺れ、下方に落ちる。そこへ老人の声がやわらかく切り込んだ。
「ま、インハイには一人も行けなかったわけだが」
祐天寺の表情が凍りついた。
「今日も、泳ぐんすよね」
目を細め、低く訊ねる。
「きみは新人戦には出るのかい」老人は質問に質問で返した。そして返事を待たずに続ける。「出ないのなら、きみはもう引退してしまったということだね。それならきみは、もう立派なOBだ。今日は、我々の側で泳ぐつもりかい?」
祐天寺はまだ答えない。答えられない。なんらかの思惑を外されてしまい、軌道修正もままならない沈黙。
忘れていたように蝉が声を上げて鳴き始めた。
「さて」枝島老人はゆっくりと首を巡らし、孝和に顔を向けた。そして明らかに孝和に向かって話しかけた。「あまりのんびりしているとアイスが溶けてしまう。そろそろ始めましょうか」
「始めるって、何を……」老人と二人きりでいるような錯覚に陥り、つい間の抜けた声で問い返す。
「ん、そうか。きみはOB会は初めてか。去年は中止に……はてなんで中止になったんだったかな」
隣の伊井にとぼけた顔を向ける。伊井は真面目に答えた。
「去年はちょうど台風が直撃したんです。延期という話も出ましたがその後ポンプが故障して、しばらくプールが使えなかったために結局中止になったんですよ」
「よく憶えているな。……まあそういうわけでツイてなくてね。今年はそのせいもあるのかもしれないが、例年の半分ほどの数しか来ていない。物事は一度途切れると流れが悪くなるものだ。だが四人以上集まっているし、ちょうど四種目の選手が揃っている。メドレーリレーのチームが一つは作れるわけだ。しかし我々だけで泳ぐのも張り合いがないのでね。ここはぜひ例年どおり――」
枝島老人の目が楽しそうに細まった。
「隣で泳いでくださらんか。現役最強チームのみなさんで。種目は、四百メートルメドレーリレー」
部員たちがざわめいた。その中で仁科の「まじかよ」というつぶやきが、部員たちの感情を代表したかのようによく通った。